システム開発の最大のコストは、実はコードを書くことではありませんでした。本当に高くついていたのは「伝言ゲーム」です。スポンサーの想いはビジネス部門へ、ビジネス部門の解釈はBAやPMへ、そして要件定義書としてエンジニアへ。伝わるたびに文脈が少しずつ削れ、解釈が少しずつ足されていく。数か月後に完成するのは、「誤解を忠実に実装したシステム」——そんな経験に心当たりのある方も多いのではないでしょうか。
「翻訳」が必須だった時代のコスト
これは誰かの怠慢ではなく、構造の問題でした。ビジネスの意図は要件に、要件は仕様に、仕様はコードに「翻訳」されなければならず、翻訳者たちは語彙も関心事も会議のカレンダーもバラバラ。だからこそ「調整」自体が一つの職業になり、確認のための会議と、その会議のための事前会議が生まれたのです。
このコストは感覚論ではありません。PMIの調査によれば、プロジェクトに投じられる10億ドルごとに1.35億ドルが失われるリスクにさらされており、そのうち56%(7,500万ドル)は非効率なコミュニケーションが原因とされています。また、目標を達成できなかったプロジェクトの半数以上で、コミュニケーション不全が要因の一つに挙げられています。伝言ゲームは、文字通り億単位の遊びだったのです。
AIが「翻訳レイヤー」を畳み始めた
いま起きている変化の本質は、この翻訳の連鎖が不要になりつつあることです。ドメイン知識を持つ一人の人間が、AIと対話しながら意図を要件に、要件を設計に、設計を動くシステムにまで落とし込める。GitHub Copilotを使った統制実験では、AI支援を受けた開発者はタスクを55.8%速く完了したという結果も出ていますが、速度以上に重要なのは、「なぜ作るのか」を知っている一つの頭脳が、最初から最後まで文脈を手放さないことです。翻訳が減れば、誤訳も減ります。
鍵は「正しく使う」——お願いではなく、議論
ただし条件があります。AIを「正しく」使えること。これは「こういうのが欲しい」と願い事を投げることではありません。要件の曖昧さをAIに突かせ、アーキテクチャの選択肢を比較させ、設計の穴を一緒に潰していく——深い議論の相手としてAIを使い倒すことです。求められるのは指示力ではなく、対話力。良い問いを立て、返ってきた答えを疑い、意思決定を積み重ねていく力です(前回の記事で述べた「決断速度」が、まさにここで効いてきます)。
エンジニア不要論ではなく、「最初に雇う人」が変わる
では、エンジニアは要らなくなるのでしょうか。私たちの答えは「ノー、ただし重心は移動する」です。定型的な業務システムや社内ツールの構築は、AIを使いこなすドメイン人材の手に移っていくでしょう。一方で、インフラ、セキュリティ、性能——「AIが書いて、動いているようです」では済まされない領域には、これまで以上に深い専門性を持つエンジニアが必要になります。
変わるのは「最初に雇う人」です。かつての反射神経は「ビジネス課題がある→エンジニアと調整役を集めよう」でした。これからは「まずビジネスアーキテクトを置き、本当に必要な局面で深いエンジニアリングを投入する」。ビジネスを深く理解し、AIとの対話で要件から設計までを一気通貫で描ける人材——この掛け算こそが、翻訳コスト暴落後の世界で最も高くつく(良い意味で)スキルセットになるはずです。
伝言ゲームの時代は終わりつつあります。次にシステムを作るとき、最初に探すべきは「伝える人」ではなく「決めて、描ける人」かもしれません。
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*参考資料:*
- *PMI, "The High Cost of Low Performance: The Essential Role of Communications" — Pulse of the Profession In-Depth Report (2013年5月)*
- *Peng, Kalliamvakou, Cihon, Demirer, "The Impact of AI on Developer Productivity: Evidence from GitHub Copilot" (arXiv, 2023年2月)*
